のだ塩の歴史

野田撫でベコ根源記

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観光物産館ぱあぷる売店の正面入り口左側に静かに横たわっています。

 

災難よけなどのご利益がありますよ。
ご来店の際には是非「背中をなでて合掌、摩って合掌」

観光物産館ぱあぷる内のジオラマ


のだ塩ベコの道

野田塩ベコの道

のだ塩ベコの道

野田村のそちこちの古い峠道には、かつて「ベコ(牛)の道」と呼ばれた狭い山道が残っています。
長い年月の中で踏みしだかれた「のだ塩・ベコの道」は、まさに先人が築いた足跡。今はただ、追分けの庚申塔や道祖神だけが、その歴史を刻み込み、語り伝えるかのように黙して静寂の中にたたずんでいます。

野田村の海岸では、古くから製塩が行われていました。製塩は”直煮(じきに)出し”という大変な重労動で、苦労して作られた塩は大切な商品でした。ここで焚かれた塩は、北上山地を越えて雫石や盛岡近在に運ばれ、米、粟、そば、豆などの穀物と交換されていました。この地方の塩を運ぶ人々は、牛の背につけて運ぶことが多かったので「野田ベコ」と呼ばれ、この塩を運んだ道を「塩の道」と呼んでいます。

命をつないだ塩の道

のだ塩ベコの道

江戸時代の野田通りの海岸では、塩ばかりでなく、早くから鉄の生産が行われており、中国地方に次ぐ砂鉄の日本の二大産地として鉄山が各所にありました。このため、塩を煮る鉄釜が容易に手に入り、製塩の歴史を画期的なものにしました。

鹿田(しかた)、粗田(あらた)と言われた野田通りの農民たちは、生きていくための確かな家業として煮塩に精を出しました。それは、北上山地を越せば、塩一升が米一升に変わる価値のあるものだったからです。

しかし明治38年からは塩の専売制となり、明治43年にはすべての製塩は廃止されました。

地元の歴史の再発見を

のだ塩ベコの道

のだ塩ベコの道

いったん途絶えた製塩ですが、平成に入ってから村の青年部により「村の宝の再発見することで、活性化につなげたい」と村内のイベントで伝統的な時期に製塩を実演する活動が始まりました。

そして周りから「ぜひ製品化してほしい」という希望も受け、野田港に『のだ塩工房』を建設。
ついに本格的な「のだ塩」の商品化がスタートしました。

 

※画像はその当時の「のだ塩」のパッケージです。

東日本大震災による被害

大津波で壊滅的な被害にあった野田港

『のだ塩』が野田村の特産品の顔となり、軌道に乗ってきた矢先、東日本大震災の大津波に襲われました。

野田港内にあった野田塩の製造施設「のだ塩工房」は流失。そのため製塩もストップになり、数か月間は在庫を限定販売でつなぐことになりました。

新しいのだ塩工房と現代の職人が作る「のだ塩」

高台にできた新しいのだ塩工房

のだ塩をつくる職人

平成24年2月頭、海を眼下に見下ろす高台(国民宿舎えぼし荘敷地内)に、新しい「のだ塩工房」が完成しました。同月6日には「火入れ式」を行い、ついに製塩がスタート!一か月後の販売再開を目指し、新しい窯での試行錯誤が始まりました。

新しい窯では、燃料に津波で流された防潮林などを活用。燃料が重油から薪になったことにより時間がかかり、以前よりさらに旨みたっぷりのまろやかな味わいに生まれ変わりました。

 

のだ塩は、昔も今も汲み上げた海水を鉄鍋でじっくり煮詰める「直煮法」。塩はまず約1.3トンの海水を4基の窯の鉄鍋に入れ、海水を足しながら蒸発させます。

燃料は上記の薪などを利用し、約4日間の蒸発作業の後、冷めた濃い海水を布でこし、石灰分等を除去します。その後再度鉄鍋に煮詰め、結晶化した塩をすくい、脱水と乾燥へ。最後に手作業で不純物を取り除く作業を行います。できあがる塩の量は1工程で20から25kgです。

完全手作りで作られたこの自然海塩は、ミネラル分が多く甘みを感じるようなまろやかな口当たりの、まさしく手塩にかけたお塩です。

そして販売再開へ

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たくさんの方々に応援をいただき、震災から1年となる平成24年3月12日、ついに新しい「のだ塩」が完成。名前も「のだ塩ベコの道」から「薪窯直煮製法のだ塩」に新しく生まれ変わって、ようやく観光物産館ぱあぷるの店頭に並びました。

これからもたくさんの方々に愛される「のだ塩」を目指します。